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作家としてじぶんの属性に障がいがあることをどう扱うべきか

STORIES 断想 #2
2024年9月24日

Atsushigraphの記事 断想2のイメージ画像です。

制作活動をしていて、ながく苦悶し、一定の方向性を見いだした現在でも悩みつづけていることが、タイトルにある『障がい』というじぶんの特性をどう扱うかということです。

現在の仮の指針

いま持ちうる仮の指針としては、ひとには数多くの属性があり、障がいもまた日常的に困難を抱えているとはいえ、ひとつの属性に過ぎないという視点です。ソーシャルメディアでつけるハッシュタグのように、いくつも付けられたり自ら付けたハッシュタグの中の一つに障がいもあり、それ以上でもそれ以下でもなく、特別扱いもしない、という振る舞いです。これが、じぶんの中で思うもっともベーシックな振る舞いかな、と思います。

けれどこうやって何か文章にしたり、相手に話す場面では、揺らぎがつきものですから、言い過ぎてしまうこともあります。それはわたしの場合、とても恥ずかしくなりますが、勇気を出していうと、「私を理解してほしい」という承認欲求に近いと感じています。

でも、この承認欲求には留意が必要だとわたしは思います。なぜなら障がいというタグを作家としてのじぶんをアピールする際に利用している構図が生まれるからです。

あなたは純粋に作品を見てほしいのか、障がいがあるひとが描いたアートとして、予備知識を持ってみてほしいのか、どっちなのですか?という問いが自分の中に生まれます。

そしてどちらか選び損ねている間にも、実はじぶんは心の何処かで「障がいがあるのに活動していてすごい」のような褒め言葉を望んでいるのではないか、まさか、まさか、望んでいるはずはありませんよね?、普段は「障がいを何かの口実に利用したくない」とか、「作品を色眼鏡で見られたくない」とか思っているくせに、所詮それはただの建前だったりしませんよね?という思考の渦になだれ込むことになります。

じぶんが憎たらしいほどに苦しくなります。

特別扱いしないことを守る難しさ

じぶんのさまざまな属性の中でなぜ障がいだけを自らピックアップし、それによって表現の調整に苦しむかといえば、じぶんの自我を構成している割合が思いのほか大きいからなのかもしれません。だから理解という名の強要を他人に向けてしまったり、あるいはすれすれでその欲求を向けそうになってしまったりするのだと。さらに赤裸々に書くならば、美化やロマン化は嫌いだと喋っておきながら、それはある種の建前かもしれず、実際は期待しているかもしれないじぶんのナルシズムに失望しすべてを投げ出したくなったりする日があるのも、じぶんに占める大きなアイデンティティになっているからに他なりません。

すべての情報を無にする作品の力

でも、ほんとうに力のある作品に出会うとき、そんな外側の情報はいとも簡単に吹っ飛んでしまいます。障がいや疾患を持っている作家という知識があってもなくても、打ちのめされる感動があるように思います。そのことを思うと、障がいのある作家としてどう振る舞い、どう表現するかといういわばブランディングのようなことを考える時間より、作品の力を信じてひたむきに試行錯誤しつづける時間のほうが重みを持ってきます。

「ほんとうに大事なのはこっちではないですか?」

作品は嘘をつかず、絶えずこのようなシグナルを送ってきます。それに気づいてこれまでのじぶんに赤面し、醜くなってもだいじょうぶです。ここからまたリトライできます。

わたしは情報が吹っ飛ぶほどの作品をまだ作れておらず、ひどい停滞期にありますが、それでもだいじょうぶとじぶんに言い聞かせることにしています。途方もなく強い産みの苦しみは、創作の喜びを見失わせるほどのストレスとなることもあります。そんなとき、疾患を悪化させないための予防線が、疾患をもつひとたちには絶対的に必要だからです。嘘でもいいから唱えていなければじぶんの心が危ないかもしれません。

さいごにわたしの主治医が以前述べてくれたひとことをご紹介しておきます。

『じぶんを追い詰めるんじゃなく、追い込むのがいいですよ。』

シリーズ『断想』のストーリー